お日記(Ω)

日本語の復習としてのiroiro

4/12(木)

4/12(木) 今日も情報量0の日記を書いていきます。

やったことリスト

感想など

CryptoZombie

 この前に参加したMeetupにて紹介されており、面白そうだと思ったのでやってみた。サクサクと進めることができ、終わった後には「私でも有用なDAppが簡単に作れちゃうかも!」という前向きな気持ちになれた。

 一通り終わらせればSolidityの基本的な部分は身につく。ネット上に載っているSolidityコードを見ても、物怖じしない程度には学習できたんじゃなかろうか。なお、CryptoKittyのコードは2000行くらいらしいので、機会があれば読んでみたい(その日が来ることはあるのだろうか)。

Land of Lisp 8章

 信じられないほどコードが読めない。Lispはもともと可読性が高い言語では無いが、8章に入った途端に難易度が跳ね上がり、もはや何も分からない状態になった。難しい概念や込み入った記号の理解、利用に対してはそこそこの自信がある方なのだが、久々に挫折しそうだ。

 ネット上の感想をザッと眺めてみると、8章(ワンプス狩り)と15章(ダイス・オブ・ドゥーム)は特に難しいらしい。8章は適当に流して、先に進むべきか否か悩む。でもまぁ、本当に分からないと思った部分はスルーして、さっさと先に進んでしまったほうが、往往にして学習は順調に進むものだ。スピードを優先する方が良いかもしれない。

 あと、Lispは無限に()を書かなくてはならないので、コードを写経するのがつらい。コードの理解もできないし、打ち込むのもつらいので、全体的につらい。

Golang公式チュートリアル

 現状、なぜかWebアプリのバックエンド部分をJavascriptで書いている。最初の方は良かったのだが、Sync/Await地獄に流石に嫌気がさして、そもそもバックエンドをJavascriptで書くメリットも全くないことに気づき、他の言語で書き換えようと思いGolangを勉強することにした。

 こちらはLispとは打って変わって、コードを読むのも写経するのも楽(チュートリアルだから当然か)。Lispの1000分の1くらいしか()も出てこないし、楽。しかも読みやすい。可読性の塊。

 可読性が高いって素晴らしいことだねって素直に思える。Lispに触れる価値はここにあった……?

お気持ち

 勉強したいことがそれこそ無限にあるため、インプットに偏ってしまっているのが良くない。でもインプットするのって楽しいから止められない。中毒性がある。アウトプットを意識してやっていきたいところ。

 当初はLand of Lispをサクッと終わらせて、Lispで何かを書いてみる、ことを目標としていたのだが、現実はそう甘くなかった。ワンプスが憎い(ワンプスってなんだ? いまだに正体が分からない。正体なんてものは無いのかもしれない)。

4/8(日)

更新の敷居を下げるために日々の記録を書くようにする。

やったことリスト

  • "読書会"に参加した
  • "Land of Lisp"の6、7章を読んだ
  • "テクニウム"の4、5章を読んだ
  • HUGプリ10話を視聴した
  • プリチャン1話を視聴した

思ったこと

読書会への参加

 行動力が高ければ高いほど生活は面白くなる、を基本方針として生きていくことにしたので、未知のイベントに誘われたら必ず行くようにしている。今日参加した会は、私が意図したものではなく、完全に偶発的なものだった。こういう偶発性に身を委ねて生活するのもなかなか面白いものだ。

会の内容もまさに"読書会"という感じだった。身バレも嫌なので詳細は省くが、想像し得る読書会の姿がそこにあったので、結構感動した。「本の感想なんてネット上で発信していればいいだろう」と考えていた(でも何もしない)自分にとっては新鮮な体験だったので、まぁまぁ満足するまで継続したいなと思う。意識的なアウトプットって本当に大事だよね、というお話。

"Land of Lisp"

無職で暇だから取り組んでいるが、特に記すことはない。何故ならば、あまり本質を理解できていないからだ。何がすごいのか、何が便利なのかいまいち分からない。関数型言語の底はそんなに浅くないということだろう。来週中には一冊終わらせたい。

"テクニウム"

「テクノロジーの進化は、生命の進化の延長線上に存在する」みたいな趣旨なのだが、これもいまいちパッとしない。私の知的レベルが本の中身に追いついていないように思える。まだ2部に入ったばかりだから、今までが前提の話ばかりで面白くなかったということだろうか。

 「数世紀前の王族に比べたら、今のマックのバイトやインドのアンタッチャブルの方が良いテクノロジーを利用している」という身も蓋もない話があったりと、今のところ「当たり前じゃね?」みたいな感じの話ばかりで、面白みがない。「テクノロジーは自己組織化し、その複雑さを指数関数的に増大して行く」みたいな話も「ま、そうなんじゃね?」という感じだし、面白みがない。本の構成もイマイチな気がしないでもないのだが、まあ、いつかは面白くなるのでしょう。

アニメ

期待値通り面白い。以上

自室では作業ができない問題

はじめに

 家に居るとやる気が出ない。人類に共通する課題である。

 地球上で最も快適なスペースは自分の部屋である、という持論を持っている私にとって、自室から外出することは出来る限り避けたいこと1つであった。休日にあせくせと外出する人類を見ては、「自室での内的な活動を楽しめない雑魚乙w」と見下していた時期すらあった。結論から言ってしまえば、雑魚なのは自分の方だった。家に居ると作業が進まないからである。

これまでの経験

 1日には24時間が割り当てられてる。睡眠時間が7時間だとすると、残るは17時間。外出をしなければ、移動時間が不要であるため、その17時間を丸々使えることになり、それだけの時間があったら日々の進捗を爆速で産めるように思える。だが、これは全くの理想論だった。

 実は前々から分かっていた。時間的な観点から見れば、最も勉強していたであろう高校時代のメインの勉強場所は、有料自習室および図書館だった。図書館に午前から夕方まで篭って勉強し、帰り道に沈みゆく夕日を感慨深く見送った記憶は今も鮮やかに残っている。また、一番集中できたのは有料自習室だった。こちらは図書館以上に勉強しかできない環境であるため、足を運んで夕方まで過ごすだけで、勉強面において大量の進捗を生み出すことができた。

 翻って、自宅での勉強はどうであろうか。自宅で集中して何時間も勉強できたことが今までにあったであろうか。いや、なかった。宅浪していた頃はPCを解体してメモリを家の庭に埋めるなど、ありとあらゆる手段で自分を勉強に追い込んだが、それらの試みはすべて失敗に終わった。大学生時代のレポート課題は、そのおよそ9割以上を大学の図書館で終わらせた。夏休みはというと、家にじっと篭って何かをしていたのだと思うが、実際に何をしていたのか記憶が定かでは無い。きっと虚無の時間を過ごしていたに違いない。私は自室では何もできない人間なのだ。

自室作業の障害

問題点1:自室では無限の可能性がある

 人間は次にやるべき作業の選択肢が絞られていないと、行動を起こすことができない。やる気が出ない時には、次にやるべき作業を具体的な手順レベルにまで落とし込む、というライフハックを聞いたことがある人がいるかもしれない。あれと関連している。

 問題なのは、自室ではありとあらゆることができてしまうことだ。ゲーム、読書、勉強、ネットサーフィン、映画・アニメの視聴、過去・未来に対する無意味な思考、etc。今までの人生の大半を自室で過ごしてきた私にとって、自室とは無限の可能性である。その無限の可能性の中から、不要な選択肢を無視し、「作業」を選びとり、それのみに集中することほど難しいことは無い。

 人間は目の前に提示されている選択肢が少ないほど、行動を起こしやすい生き物なのだ。選択肢が多すぎると、何をやれば良いのかが分からなくなり、結果として何もやらない。自室という無限の可能性が生まれる空間に1日中いると、段々と気が狂ってくるのはこのためである。

問題点2:水は低い方に流れる

 脳は常に楽をしたいと考えている。横になれる布団に入れば「横になりたい」という願望が生まれるし、Twitterクライアントが視界に入れば「新社会人が苦しんでいるTweetを検索したいな」といった願望が生まれる。これらの願望はすべて作業の敵である。

 人は我慢をするたびに精神力を消耗している。「横になりたい」と思ったけれども横にならない、という選択肢を取った時点で、すでにMPを消費しているのだ。自宅のマズイところは、課題1と合わせて、この欲望発生源が無限にあることである。無限に発生する欲望に対して、無限に抗うことはできない。人間の精神が敗北するのはもはや必然である。結果として、布団に横たわりながらTwitterを眺める状態にトラップされるのが関の山である。

問題点3:緊張感が0

 岸辺露伴も言っていたように、最も難しいことは自分自身に打ち克つことだ。誰だって自分の中に「有意義な作業をしなければ」という天使を飼っている。しかしながら、こいつはあまりにも弱い。一方で「布団に横たわりたい」「はてブをサーフィンしたい」という悪魔は強い。勝てる見込みはない。

 もし誘惑に勝つことができるとしたら、それは緊張感がある時である。〆切が近づいているだとか、作業をしないと怒られるとか、大学の単位が取れないだとか、そういったプレッシャーがあれば人間は神経が緊張し、好戦モードに入る。好戦モードであれば寝ている場合ではなく、何らかの作業をこなすことも容易となる。

 自由に時間を使える環境下で、自室で好きなことをやろうという時に、好戦モードに入れるタイミングは全くない。自室は最もリラックスできる空間であり、敵がいないのだから当然である。リラックスできるというのは必ずしも悪いことではないが、リラックスしすぎたら何もできなくなるのが人間である。緊張感が無ければ人間は何もできない。

外での作業

選択肢が減る

ここでようやく外出して作業をすることについて考えていきたい。外出すれば自ずと選択肢は絞られる。自室では無限の選択肢があったのに比べ、外に出た時にできる選択肢は

  • 手持ちの本を読む
  • スマフォを弄る
  • ノートPCで作業をする

くらいなものだ。布団に横になって眠ることもできなければ、積みゲーを消化することも、積みアニメを視聴することもできない。有意義な作業をするために我慢しなければならないことと言えば「スマフォをいじる」のみである。スマフォさえ開かなければ、自ずと他の作業をするしかないのだ。

低い方に流れて作業をする

 人間の特性上、何もせずに暇を持て余すことほど苦痛なものはない。私は瞑想をしているから分かるが、瞑想ほど大変なものはない。瞑想というのは端的に言ってしまえば「何もしないこと」を指すので、何かをするよりは楽なはずなのだが、楽ではないのだ。つまるところ、人間にとっての苦痛度は「何もしていない>>>何かをしている」であると言える。ある1つの選択肢だけが与えられ、他に何もできない環境さえあれば、その選択肢を選び取ることが苦痛を抑える最良の手段となる。

図書館や自習室での作業や勉強がうまくいくのはこのためである。その場まで行ってしまえば他に選択肢がなく、目の前の作業に集中するしかない。そして、目の前の作業というのは始める前の想像と違い、やってみると案外楽しいものなのだ。その場に居る限りにおいて、最も楽な行為が「何かの作業をする」となるのだから、意識して何かを我慢せずとも作業をこなすことが可能となる。

他人が居る

 人間はストレスを受けると自ずと緊張感が生まれる。さて、ストレスはどこから生まれるのか。他人である。知らない人間が近くに居れば、人は自ずと緊張する。これはもう動物的な仕組みからそうなっているのではないかと思う。今までの経験上、高い場所に行った時と、他人が近くに居る時は必ずと言っていいほど緊張感が生まれる。脳の仕組みからして、そうプログラムされているんじゃなかろうか。学術的なソースは無いが、探せばいくらでも見つかりそうな気もする。

 神経に少しでも緊張感が生まれれば、何らかの行動を起こすことは容易である。緊張感をそのまま進捗に変換するだけだ。

まとめ

 自室に居ると作業をすることが困難であるのに対し、外出すればいくらでも作業を進めることが可能となる。何故ならば"楽"だからだ。自室に居たら無限に困難に思えた作業も、外では楽にこなすことができる。うだうだ自室で考えている暇があったら、金を払ってどこかの作業スペースに移動した方が、トータルでの金銭的価値が高いことは明らかである。

 もし自室に居ながらも作業をしたいと思うのであれば、他の情報が遮断された作業スペースと、雑多なものが散らばっている娯楽スペースを分けるなど、何らかの特殊な環境構築が必要だろう。最近、私が部屋にある物を捨てまくってミニマリストになりたいと豪語している理由もここにある。部屋の中から余計な選択肢を極力減らしたいのだ。

 デスクトップPCでしかできない作業もあるため、休日に1日中外出して作業する、というのは難しい。そのため、今後は午前中だけでも外で作業をし、頭をハッキリとさせてから家で作業をする、といったルーチンを確立したい。まぁ、「したい」というだけで本当に実行できれば生きるのはそう難しくないんですけどね。