お日記(Ω)

日本語の復習としてのiroiro

自室では作業ができない問題

はじめに

 家に居るとやる気が出ない。人類に共通する課題である。

 地球上で最も快適なスペースは自分の部屋である、という持論を持っている私にとって、自室から外出することは出来る限り避けたいこと1つであった。休日にあせくせと外出する人類を見ては、「自室での内的な活動を楽しめない雑魚乙w」と見下していた時期すらあった。結論から言ってしまえば、雑魚なのは自分の方だった。家に居ると作業が進まないからである。

これまでの経験

 1日には24時間が割り当てられてる。睡眠時間が7時間だとすると、残るは17時間。外出をしなければ、移動時間が不要であるため、その17時間を丸々使えることになり、それだけの時間があったら日々の進捗を爆速で産めるように思える。だが、これは全くの理想論だった。

 実は前々から分かっていた。時間的な観点から見れば、最も勉強していたであろう高校時代のメインの勉強場所は、有料自習室および図書館だった。図書館に午前から夕方まで篭って勉強し、帰り道に沈みゆく夕日を感慨深く見送った記憶は今も鮮やかに残っている。また、一番集中できたのは有料自習室だった。こちらは図書館以上に勉強しかできない環境であるため、足を運んで夕方まで過ごすだけで、勉強面において大量の進捗を生み出すことができた。

 翻って、自宅での勉強はどうであろうか。自宅で集中して何時間も勉強できたことが今までにあったであろうか。いや、なかった。宅浪していた頃はPCを解体してメモリを家の庭に埋めるなど、ありとあらゆる手段で自分を勉強に追い込んだが、それらの試みはすべて失敗に終わった。大学生時代のレポート課題は、そのおよそ9割以上を大学の図書館で終わらせた。夏休みはというと、家にじっと篭って何かをしていたのだと思うが、実際に何をしていたのか記憶が定かでは無い。きっと虚無の時間を過ごしていたに違いない。私は自室では何もできない人間なのだ。

自室作業の障害

問題点1:自室では無限の可能性がある

 人間は次にやるべき作業の選択肢が絞られていないと、行動を起こすことができない。やる気が出ない時には、次にやるべき作業を具体的な手順レベルにまで落とし込む、というライフハックを聞いたことがある人がいるかもしれない。あれと関連している。

 問題なのは、自室ではありとあらゆることができてしまうことだ。ゲーム、読書、勉強、ネットサーフィン、映画・アニメの視聴、過去・未来に対する無意味な思考、etc。今までの人生の大半を自室で過ごしてきた私にとって、自室とは無限の可能性である。その無限の可能性の中から、不要な選択肢を無視し、「作業」を選びとり、それのみに集中することほど難しいことは無い。

 人間は目の前に提示されている選択肢が少ないほど、行動を起こしやすい生き物なのだ。選択肢が多すぎると、何をやれば良いのかが分からなくなり、結果として何もやらない。自室という無限の可能性が生まれる空間に1日中いると、段々と気が狂ってくるのはこのためである。

問題点2:水は低い方に流れる

 脳は常に楽をしたいと考えている。横になれる布団に入れば「横になりたい」という願望が生まれるし、Twitterクライアントが視界に入れば「新社会人が苦しんでいるTweetを検索したいな」といった願望が生まれる。これらの願望はすべて作業の敵である。

 人は我慢をするたびに精神力を消耗している。「横になりたい」と思ったけれども横にならない、という選択肢を取った時点で、すでにMPを消費しているのだ。自宅のマズイところは、課題1と合わせて、この欲望発生源が無限にあることである。無限に発生する欲望に対して、無限に抗うことはできない。人間の精神が敗北するのはもはや必然である。結果として、布団に横たわりながらTwitterを眺める状態にトラップされるのが関の山である。

問題点3:緊張感が0

 岸辺露伴も言っていたように、最も難しいことは自分自身に打ち克つことだ。誰だって自分の中に「有意義な作業をしなければ」という天使を飼っている。しかしながら、こいつはあまりにも弱い。一方で「布団に横たわりたい」「はてブをサーフィンしたい」という悪魔は強い。勝てる見込みはない。

 もし誘惑に勝つことができるとしたら、それは緊張感がある時である。〆切が近づいているだとか、作業をしないと怒られるとか、大学の単位が取れないだとか、そういったプレッシャーがあれば人間は神経が緊張し、好戦モードに入る。好戦モードであれば寝ている場合ではなく、何らかの作業をこなすことも容易となる。

 自由に時間を使える環境下で、自室で好きなことをやろうという時に、好戦モードに入れるタイミングは全くない。自室は最もリラックスできる空間であり、敵がいないのだから当然である。リラックスできるというのは必ずしも悪いことではないが、リラックスしすぎたら何もできなくなるのが人間である。緊張感が無ければ人間は何もできない。

外での作業

選択肢が減る

ここでようやく外出して作業をすることについて考えていきたい。外出すれば自ずと選択肢は絞られる。自室では無限の選択肢があったのに比べ、外に出た時にできる選択肢は

  • 手持ちの本を読む
  • スマフォを弄る
  • ノートPCで作業をする

くらいなものだ。布団に横になって眠ることもできなければ、積みゲーを消化することも、積みアニメを視聴することもできない。有意義な作業をするために我慢しなければならないことと言えば「スマフォをいじる」のみである。スマフォさえ開かなければ、自ずと他の作業をするしかないのだ。

低い方に流れて作業をする

 人間の特性上、何もせずに暇を持て余すことほど苦痛なものはない。私は瞑想をしているから分かるが、瞑想ほど大変なものはない。瞑想というのは端的に言ってしまえば「何もしないこと」を指すので、何かをするよりは楽なはずなのだが、楽ではないのだ。つまるところ、人間にとっての苦痛度は「何もしていない>>>何かをしている」であると言える。ある1つの選択肢だけが与えられ、他に何もできない環境さえあれば、その選択肢を選び取ることが苦痛を抑える最良の手段となる。

図書館や自習室での作業や勉強がうまくいくのはこのためである。その場まで行ってしまえば他に選択肢がなく、目の前の作業に集中するしかない。そして、目の前の作業というのは始める前の想像と違い、やってみると案外楽しいものなのだ。その場に居る限りにおいて、最も楽な行為が「何かの作業をする」となるのだから、意識して何かを我慢せずとも作業をこなすことが可能となる。

他人が居る

 人間はストレスを受けると自ずと緊張感が生まれる。さて、ストレスはどこから生まれるのか。他人である。知らない人間が近くに居れば、人は自ずと緊張する。これはもう動物的な仕組みからそうなっているのではないかと思う。今までの経験上、高い場所に行った時と、他人が近くに居る時は必ずと言っていいほど緊張感が生まれる。脳の仕組みからして、そうプログラムされているんじゃなかろうか。学術的なソースは無いが、探せばいくらでも見つかりそうな気もする。

 神経に少しでも緊張感が生まれれば、何らかの行動を起こすことは容易である。緊張感をそのまま進捗に変換するだけだ。

まとめ

 自室に居ると作業をすることが困難であるのに対し、外出すればいくらでも作業を進めることが可能となる。何故ならば"楽"だからだ。自室に居たら無限に困難に思えた作業も、外では楽にこなすことができる。うだうだ自室で考えている暇があったら、金を払ってどこかの作業スペースに移動した方が、トータルでの金銭的価値が高いことは明らかである。

 もし自室に居ながらも作業をしたいと思うのであれば、他の情報が遮断された作業スペースと、雑多なものが散らばっている娯楽スペースを分けるなど、何らかの特殊な環境構築が必要だろう。最近、私が部屋にある物を捨てまくってミニマリストになりたいと豪語している理由もここにある。部屋の中から余計な選択肢を極力減らしたいのだ。

 デスクトップPCでしかできない作業もあるため、休日に1日中外出して作業する、というのは難しい。そのため、今後は午前中だけでも外で作業をし、頭をハッキリとさせてから家で作業をする、といったルーチンを確立したい。まぁ、「したい」というだけで本当に実行できれば生きるのはそう難しくないんですけどね。